イボの治療で医者に通うこと、本日で5回。全治への道のりはなはだ険し。お医者曰く、「アナタのは頑固だ!」と。イボにも個性があるのか。恐れ入った。
治療は簡単。-196度の液体を患部にすり込むだけ。なんてことはない。焼きを入れる、ということである。なんて原始的なんだ。麻酔のひとつもしない。 -196度が+36度前後に触れれば音もするし煙も出る。いてぇに決まっている。でも我慢する。ガキじゃあるまいし。まだ園児らしき子供が治療に来ている。治療が終わって得意気に帰っていきやがる。おめぇだっていてぇくせに。強がる我が子の手を引く若いお母さん。「泣きたいときは泣いていいんだよ」だって。そんなやさしくされたらアタシが泣きそうだ。 -196度の液体は1つの患部に5回ずつすり込まれる。5ヶ所あればあわせて25回。アタシははじめ8ヶ所あった。今は何ヶ所だ?どういうわけか途中で増えたりしているから大して変わっちゃいない。都合200発くらいはラクに食らっている。 厄介なのは治療が終わって病院を出たあとである。3時間くらいは自分が使いものにならない。ただただ悶絶している。心臓が足の裏にもう一個できたようで、鼓動のたびに痛みが走る。どうにか落ち着いてきても相変わらず痛い。歩けないし眠れない。こうなりゃ飲むしかない。もちろん薬じゃなくて酒である。ビールを飲む。するとあら不思議、足の裏の心臓はますます活発に動き始める。あたりめぇだ。 痛みというのは人を気短かにさせる。センテンスも短くなる。べらんめぇにもなる。あ~、いてぇ。 イボというのは、詳しくは知らないが、ウィルスが原因らしい。イボ菌とでも言うのか。コイツが死滅するまで治療は繰り返される。相手だって必死だ。アタシがいるから食うに困らず生きていられるんだ。 お医者がうまいことを言った。「居住権を主張してるのかもしれないですね」言うてる場合か。でもまんざらでもない。ナニがバイキンでナニがバイキンじゃないかなんてわかりゃしない。へたすりゃ人間が最もタチの悪いバイキンかもしれないじゃないか。 こうなりゃ共存共栄、いっそのことあの世までご一緒するか。いや、でもコイツは自己顕示欲が強いから増殖する。見えないところにあるうちはまだ許せるが表に出てくるやもしれん。仕舞いにゃこどこがアタシでどこがイボなのかわからなくなるかもしれない。そんなことになったら大変だ。 次の治療はおよそ2週間後である。やけどと同じだから、痛みが治まって、新しい皮膚が出来て、表面がかさぶたになって、それが剥がれ落ちてから、次である。今から疎ましい。年明けくらいまでには何とかしたい。イボも休み休みで行くしかない。 国会。残党の怨念は郵政民営化の見直しとなって、一見すると、形勢逆転のようにも見える。
時は民主党政権。政権交代となってからの国会中継は、場に応じた自分の言葉でしゃべることのできる閣僚によって、活気づいている。その中で一人、一向に応じないままひときわ異彩を放つ人がいる。ご存じ、亀井静香金融担当大臣である。亀井さんは相変わらずへの字口のまま、やっぱり元気だ。のちに鳩山内閣は、予定調和の昭和式に終わりを告げた内閣として、そして亀井静香のいた内閣として、歴史に名を刻むかもしれない。断っておくとアタシは、人間亀井静香が好きなのである。政治家亀井静香先生は、いかんともしがたいとしか言えないが。 昭和式、ということの中にはきっと、伝統や型、というものも含まれていて、ここに内容が盛り込まれたとき、はじめて伝統や型は天下一品になる。けれども実際には型どおりでお茶を濁すことが多いから、すぐにそういうのは嘘っぽくなる。だから政治家の発言はずっと、嘘っぽかった。でももうそれは嫌です、という声は少しずつ増えていて、そのひとつの結果が、政権交代なのだと思う。 型どおりを打ち破ることはたやすいことではない。破った型を補えるだけの内容、すなわちアドリブ力という名の実力、がついてこなくてはならないから。なので型どおり、には、裏を返せば、楽して生きる、という一面も隠されていて、型どおりの中にすっぽりおさまってしまっている人たちにとってはそれが意識されにくい、という好都合もある。だから型どおりは、相変わらず蔓延する。 今や型どおりは、それが体質に合わずにハナから型を取り入れない、という傾向も生んでいる。今どきのテレビに出てくるタレント、ということで言えば、そういう風潮は顕著である。型がないから型破りにもなれない。簡単に上っ調子しか残らない。こう書いてみると、なんだか手前ぇのことを言っているような気がしてきた。型を莫迦にしちゃいけない。 型に内容を盛り込んで、ある種の型破りとして時代を動かしてきた人物は、偉大である。昭和式の中には、その中で悪戦苦闘してきた人たちだっていたわけで、内容を盛り込む、ということがどれだけ大事なことなのかは、そういう人たちを見ていれば、伝わってくる。 けれども現実は、そういう人たちが、足並みそろえて、いなくなっている。今年はどうも、そういう年のような気がしている。 と思うまでに、2ヶ月くらいかかる。ここから手をつけるまでに、さらに1ヶ月かかることもある。部屋の片付け、のことである。
年の初めの願掛けは、「整理整頓が出来るようになる」だった。今年もすでに、10ヶ月が過ぎようとしている。少なくも目の前の現状を見る限り、願いはかなっていない。 「整理整頓が出来るようになる」は、なにも部屋の片付けのことばかりではないが、現実はよくもまぁと言うしかない有様、体たらく。それをそのままほうっておくのだから、部屋の片付けの優先順位は低いのか。 今年は、「整理整頓が出来るようになる準備をする」、そういう一年で終わりそうだ。 この3年くらい、ずっとそうなのだけれど。 つまり昨年の願掛けも、一昨年の願掛けも、「整理整頓が出来るようになる」なのである。 部屋の惨状を尻目に、いそいそと映画館に出かける。ここ2週間くらい、ずいぶん観ている。すべて日本映画である。 「カムイ外伝」「悪夢のエレベーター」「クヒオ大佐」「さまよう刃」「ヴィヨンの妻」「女の子ものがたり」「手紙」。今の日本映画は多様である。 多様であることがそうさせるのか、カムイ外伝は、脚本・宮藤官九郎、監督・崔洋一ということだから見に行ってみたら、そのCGの多さに、慣れないものを試している、という感じだった。悪夢のエレベーターも、堀部圭亮初監督作品ということで、だれでも初めは意気込んでしまうのだと思うけれど、そういう意気込みが少し欲張りな演出になったりする。 ストーリーとは別のところで、漁師役の小林薫の体型に感動していた。なで肩で余分な胸の筋肉はそぎ落とされ、程よく腹が出ている。程よく、というのは、帯がしっかり締まる、という程度にである。大人の男の体型の、お手本を見つけたような気がした。 悪夢のエレベーターは、本当は、モト冬樹のオカマが見たくて行った。ハマっていた。優しさがにじみ出るオカマだった。もうひとつテンションを上げればコメディでいけると思った。立派に気持ち悪かった。 登場人物が浮き彫りになってゆくのと、ストーリーの謎解きが同時進行なのはミステリーたるゆえんだが、それを平然と伝えるのは難しい。こういうのは料理も一緒である。あれもこれもとなると、程のよさはすぐに超えてしまうから、豪華になる。そう言うと聞こえはいいが、豪華に慣れていない豪華はたやすくけばけばしくなるもので、それをみっともないとするか、わぁ素敵!とするかは人による。 ヴィヨンの妻は、根岸吉太郎監督。59歳で白髪。もう12、3年も前になるけど、見習いで働いていた料理屋によく来ていたから、知っている。そのころから白髪。いかにもモテそうな、デリケートとダンディを併せ持った、独特な雰囲気の方だった。 映画の中で、広末涼子が浅野忠信にまたがっているカットから始まる濡れ場なぞ、真骨頂である。酒に酔って浮かび上がる恐怖にあえぐ夫、浅野忠信が、浴衣の妻、松たか子の裾から手を入れてまさぐり上げる。興奮してしまうアタシ。なんだかもう同じ男として、こんなすがり方しか出来ない男の悲しさと、そんなのを見事に見せつけられちゃう自分の悲しさが交錯して、まったくあんな風に撮れてしまうのは、どういうことなのか。 作品は太宰治の小説を映画化したものだが、太宰のことであろう夫は、少し大雑把ではなかったか。監督は太宰治が嫌いなのかもしれない。 さまよう刃は、東野圭吾の小説の映画化。原作は読んでいない。でもちゃんと大人の映画だった。監督の益子昌一さんは、まだ41歳である。 手紙も、そう。東野作品。こちらは映画館ではなく、深酒がたたると夜中に起きてしまう体質になってしまったアタシが、眠れずにパソコンを開いたら無料配信中ということだったから、ありがたく、無料で観た。ワイドショー以外ではじめて観る沢尻エリカがなかなかの好演で、真夜中にひとり、泣く。おかげでそのあと、ぐっすり眠れた。 いい映画やいい小説には、いい余韻がある。それはつまり、自分で考えろ、ということなのだと思う。東野圭吾の作品はいつも、淡々としたストーリーの中で、最後には問題意識を突きつけてくる。その突きつけ方には迫力があって、突きつけてくるのが問題意識だから、後の責任はぜんぶ突きつけられたほうが背負うことになる。 それでも背負わない人は、一向に背負わないけれど。 考えるチャンス、というのは、こうして突然やってくるものだが、全部与えてくれるのが当たり前でしょ、な風潮の中では、そんなチャンスはとても少ない。いいから教えて、は、アタシって救いようもなくバカなの、と、同じなのだが。思考の放棄は自分の放棄でもある。 たとえばクヒオ大佐は、与えられるのがあたり前というのは今となっては男も女も全然あたり前なんかではないよ、と言っていた。いや、言ってはいない。でも、言っていた。 男が女に惚れる、と、女が男に惚れる、は、少し違うことになっている。男が女に、いいように振られたらただの間抜けだが、女が男に、いいように振られたらそのときは文句を言える、ということになっていた、今までは。男は女に、よくしてもらえるかどうかは男の器量次第だが、女は男に、すべからくよくしてもらうもの、ということになっていた、今までは。でももうそういう時代は終わりなのだと思う。都合のよさは都合のよさでしかないから。 そういうことをわかってゆく女の子3人の物語が、女の子ものがたり。この映画で、はじめてのシネマテーク高崎。なんだか学校の教室みたいな雰囲気で、懐かしい。 ぐうたら漫画家、深津絵里が、新米編集者、福士誠治に聞く。「ねぇ、人生が想像していたよりも重くてつらいものだとわかったのはいつ?」36歳のリアルな言葉。自分にちゃんと向き合っている人の言葉。だからこそ人生は始まりもする。そう、もはや人生は、本気で自分に向き合わないと一向に始まらないのかもしれない。負けるな、女の子! と、いうわけで、グダグダと、たまにだからってよく書くのは、欲かくからです。なるほど疲れてます。読むのだって疲れたでしょう。映画の内容や配役について、すべて勝手な感想ですから、くれぐれもコメントなどなさいませぬよう。 以上、本日の整理整頓は、これにてお終い。 本当は寄り合いの案内を書くつもりでした。 久しぶりの雨だ。窓越しに、雨どいからちょろちょろと樽に落ちる水音が聞こえる。この樽は、大雨が降ったときの浸水防止用に設置してあるもの。昨年大活躍をしたこれも、今年はほとんど渇いたままである。この夏は、雨が少なかった。
この2ヶ月あまり、ブログは書かなかったが、世の中は少し変わる兆候を見せていて、アタシはとくに変わらない。ブログはやめたわけではなく、やめたのはむやみに飲む酒の方で、始めたのが、いぼの治療と、アイス売りである。なんだかよくわからないが、それで忙しかった、ということになる。 毎日覗いてくださる方には実に申し訳がなく、連絡先を教えてくださればアタシの方から「ブログ、書きました」と一筆お送りしたいくらいの気持ちですが、そういう方に向けて、ここじゃないどこかで違うブログを始めるのもいいかと、考えることもあります。でもそのときは名乗って書いたりはしないでしょうから、なかなか見つけられないということにもなるのですが。 それはさておき、この時期に、楽しみにしているものがあります。十五夜であります。今年の十五夜は10月3日で、この、旧暦の名残りであるこの行事が、どういうわけか子供のころから好きでした。(十五夜については、「ぐんま旅のレシピ」内「幸せのひとしな」10月1日更新の回に書いたので、よろしかったらご覧下さい。) 昨日店に来てくれたFさんと話していて、「お月見もいいですね」という話になり、それで急遽、今度の日曜日にお月見寄り合いをすることになりました。 十五夜は10月3日の土曜日ですが、満月になるのは翌4日の日曜日です。天気もそちらの方がよさそうです。とくに改めて連絡は差し上げませんが、連絡がこないから行かない、なんておっしゃらずに、どうぞお時間がございましたら、お気軽に、お越しください。 詳しくは「あるまちニュース」にて。 夏休みで実家に来ている。祖母ちゃん子だから、親はまだ仕事で東京にいるというのに、「祖母ちゃんがいればいい」というので、ひとり群馬にいる。3歳である。
アタシはなにを隠そう子供好きだから、ここぞとばかりに毎日一緒に遊んでいる。テレビを見たり、本を読んだり、今日は、花火をしてきた。 「もうそろそろテレビも終わりにしようか」 「まだおわあないよ」 「あとどのくらい見るの」 「でぃんたまだんたおーでおわいだよ」 これは‘忍たま乱太郎’のことである。 「おじちゃんこえよんでいいよ」 ‘アンパンマン’の本を持ってきた。 「おじちゃんはいいよ」 「よんでいいよ」 「・・・」 「よんでいいよ」 読んでいい、のではなくて、読んでほしい、のである。「よんで」とはなかなか言わない。そんなとき、ちゃんとオンナなんだ、と気づく。よく連れて行くまんじゅう屋に行きたいときも、「つれてって」とは言わない。「おじちゃん、おまんじゅうやさんにいかないの?」と言う。 3歳をナメちゃいけない。 本を読んで聞かせる。 これがなかなかむずかしい。 昨今、読み聞かせ、という言葉をよく耳にする。そういうことは親が読んでやればいいので、わざわざ出向いていって聞かせるほどのものだろうかと思っていたが、いざ自分で読んでやると、なるほどこれは大事なことかもしれないと思うようになった。 子供用の絵本は、地の文が少ない。つまり、会話形式で物語が展開していく。これを下手な大人が読むと、子供にはそのままのリズムが身についてしまう。そもそも会話における間、テンポというのは、人間関係を作る上での基礎となるものだ。実際、それが不得手でうまく生きられない、という悩みは意外に多いのではないだろうか。ただ読んで聞かせればいいというものでもない。 してみれば、いい間というのはどんな間なのか、というのも問題になっていいはずだ。しかしそういうことが議論されているというのを聞いたことがない。たとえば、子育て支援の項目に、子供に絶妙の間を身につけさせる、という項目があってもいい。おそらくこういうことは、どの党のマニフェストにも書いてはいまい。現代の悲劇性はここにある。 大事なのは内容、である。でもこれは読んでやる側の好みが反映されるので、なんとも言いがたい。総じて勧善懲悪が多い傾向である。子供にはそれがいい、ということなのかもしれないが、適度の悪と共存できてやっと一人前になれるのが人間、と思っているアタシは、どうもそこに気持ちが入っていかない。 それで適当な絵本はないかと探していたら、分厚い童話集を姪が持ってきた。 ヨミキカセ、の始まりである。 「ここにね、かいてあるかあ」 姪が目次を小さな指で差して教えてくれている。この中から選べ、ということだろう。そしてアタシは次の一言に、度肝を抜かれることになる。 「わういのがいいな」 姪はラ行がア行になる。 言い換えると、 「ワルイノがいいな」 ということだ。 はたしてそれが、物語の中にワルイノが出てくる、なのか、物語の中でワルイノが活躍する、なのかわからないが(もちろん前者に違いないとは思うが、後者への期待、いいことしか書いていない説教くささへの退屈、もあるはずだ)、いずれにせよすごいことを言うやつだと思った。 血は争えない。
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